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リゲッタ誕生秘話 第5回

Re:getA誕生秘話

リゲッタ誕生秘話 第5回

「先行きが不安すぎて仕方がなかったです。」

修業期間を終えて大阪の生野区の実家、
『 タカモトゴム工業所 』 に凱旋します。

1998年・23歳のころです。
そのころには自分の父の会社の状況を客観的に見ることが出来て、ウィークポイントも大体わかります。 まぁ、会社って言っても僕を含めて両親、いとこの兄さんの4人の会社でしたが。

なんであれ、ここが僕の一生働く場です。
「 さあ、 やるぞっ。 」 て燃えていました。
家族の役に立てるように頑張るぞ って気持ちが強かったですね。

Re:getA誕生秘話 イラスト:高本 泰朗

【作りたいものが作れない・・・。やりたいことが出来ない・・・。】

でも、ここで難しい問題にぶち当たりました。
同じ靴業界なのに生野区と長田では靴作りの技術が根本的に違うということがわかったんです。

神戸の長田で修行をすることで、わかりやすく言うと、

【 戦車の乗り方はまだまだ難しいとしても、マシンガンくらいは使えるようになった 】

その上で生野区に凱旋したつもりでしたが、実家に戻って父親に渡されたのは、
【 竹やり 】 でした・・・。
「 やすお、 すまんが、この武器で戦ってくれ。 」 と。

という表現がピッタリなくらい当時の生野区は靴作りの技術が低かったのです。
作りたいものが作れない・・・。 やりたいことが出来ない・・・。

また現在の生野区と違って、中途半端な仕事量があったので、(今はまったく仕事はないですが)
職人さんたちもモチベーションも低く、危機感も持っていなく、
「 今のままでええやん。 無理して変わらんでええやん。 」 って意識が蔓延していました。
それと、今まで作ったことない靴は 「 できない。 無理。 」 と言い切る人たちばかりだったので その意識を変えるにとても苦労しました。
僕みたいな勉強しかしてこなかった若者の言葉が年配の職人さんたちの心に響くこともなく、
完全に舐められていましたね。
また職人さんからすれば勉強ばかりしてきて頭でっかちな僕は生意気に映ったのだと思います。

Re:getA誕生秘話

【危機感の塊】

当時のタカモトゴム工業所は広島にある大きな親元メーカーの下請けをしていました。
靴は作っていましたが、親元メーカーの指示した物だけを作る・・・という環境でした。
十分それでもご飯は食べていけたのですが、僕は危機感の塊でした。
というのも1980円のシルバー向けの靴ばかりを専門に作っていたので、
このままでは様々な理由で需要がなくなる・・・とずっと感じていました。

@同業者が多すぎる
A年々靴の資材が高くなって安い靴は作れなくなっている
B常に中国製品が睨みをきかせている。

などがあったからです。

タカモトゴム工業所は広島の親元のメーカーからすれば
数ある下請けメーカーの中でも力のない下請けメーカー。
別に頼りにもされていなかったので親元メーカーからの扱いは悪かったのです。
僕が実家に入社したころに広島の親元メーカーのカリスマ社長が亡くなり、
息子さんである若い二代目社長に切り替わった・・・というのも毛嫌いされる原因でした。

たった4人の家族経営の町工場だったので細々とは生活できましたが、
未来のことを考えると先行きが不安すぎて仕方がなかったです。


まだまだ若いのにこれから自分の人生がどうなるのか・・・? と思うと不安で仕方なく、
なんとか打開しないといけないと考え、タカモトゴムに入社してからは連日遅くまで仕事をし、
仕事が終わったら生野区のことをもっと知れるように予習と対策を練っていました。
丸裸になるまで生野区の靴製造方法とハウスルールを研究していましたね。


<つづく>

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第6回は11月13日(金)公開!乞うご期待!
職人 Re:getAデザイナー 高本 泰朗 靴職人 Re:getAデザイナーシューズミニッシュ代表取締役 高本 泰朗

生まれも育ちも大阪の生野区という下町で過ごしてきたデザイナーの高本氏。
靴の専門学校、シューズメーカー数社での企画・デザインの経験を経て、当時靴の下請けであった実家「タカモトゴム工業所」で靴作りに励む。
2001年、後に「リゲッタ」「リゲッタカヌー」などのブランドを手掛ける「シューズミニッシュ」として、靴メーカーを始める。