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リゲッタ誕生秘話 第4回
「初任給は8万円・保険なし。」
21歳の9月に藤企画は卒業。(1996年) 右も左もわからない若者を1年半も預かってくれた師匠たちには心から感謝しています。 師匠の池さんが紹介してくれた「M」という会社(以下、M社)に今度は丁稚奉公。 修行で得た技術と知識を実践するために入社しました。初任給は8万円・保険なし。 もちろん残業手当やボーナスなんてありません。入社初日から夜の10時まで企画の仕事。 朝は5時半起きで生野区から長田まで通っていました。 毎日クタクタでしたが、充実していて楽しくて仕方がなかったですね。 通勤には1時間半。 満員電車に揺られながらも靴の本、足の本を読みふけっていました。
【今の僕の原型がこの時期に作られたのかもしれません・・・。】
M社にいたのは一年半だけだったのですが、型紙やデザインだけでなく現場にも入り、汗まみれになりながら靴作りに没頭しました。 おかげで靴作りに必要なすべての機械の使い方をマスターすることが出来ました。 M社を退社するころには先輩のデザイナーの方たちよりも型紙の技術は高かったし、靴作りの知識・技術も一番上だったと今でも思います。 当時も不景気と言われていたので、会社の人たちと食事に行っても先輩たちは仕事や靴業界への愚痴ばかりだったのですが、僕が思いっきり前向きだったので、『 お前と喋ってたら頑張らなあかんなぁって思うわ・・・。 』って先輩によく言われたものでした。 今の僕の原型がこの時期に作られたのかもしれません・・・。 うっとおしいくらい熱かったんでしょう。(自分では気付きませんでしたが。)
【ふざけた子供から、目に輝きを持った青年に変わっていく瞬間だったと思います。】
先輩たちには「 お前、8万円でよくそこまで頑張るわ・・・。 」 ってよく言われましたね。 当時は友達と遊ぶより、靴の方が好きだったので全然平気です。 おかげでずいぶん友達が減ってしまいましたが(笑) M社を退社するとき、今までほとんど喋ったことのなかった(話しかけてくれなかった)社長が最後の日の夜に僕だけをお寿司屋さんに連れて行ってくれ、 社長の昔からの靴作りに対していろいろ話をしてくれました。 なおかつ帰り際、車の窓から無造作に手渡しで金一封を頂きました。 「 やめていく人間に金を渡すんは君が初めてや。大阪に戻っても頑張りや。 」 って言ってくれて、社長の前で泣いたのを覚えています。 東京一年、神戸三年。 合計4年の修業期間。 そんなこんなで僕の若手修行編は終了しました。 ふざけた子供から、目に輝きを持った青年に変わっていく瞬間だったと思います。
生まれも育ちも大阪の生野区という下町で過ごしてきたデザイナーの高本氏。 靴の専門学校、シューズメーカー数社での企画・デザインの経験を経て、当時靴の下請けであった実家「タカモトゴム工業所」で靴作りに励む。 2001年、後に「リゲッタ」「リゲッタカヌー」などのブランドを手掛ける「シューズミニッシュ」として、靴メーカーを始める。
リゲッタ誕生秘話 第4回
「初任給は8万円・保険なし。」
21歳の9月に藤企画は卒業。(1996年)
右も左もわからない若者を1年半も預かってくれた師匠たちには心から感謝しています。 師匠の池さんが紹介してくれた「M」という会社(以下、M社)に今度は丁稚奉公。 修行で得た技術と知識を実践するために入社しました。初任給は8万円・保険なし。
もちろん残業手当やボーナスなんてありません。入社初日から夜の10時まで企画の仕事。
朝は5時半起きで生野区から長田まで通っていました。
毎日クタクタでしたが、充実していて楽しくて仕方がなかったですね。
通勤には1時間半。 満員電車に揺られながらも靴の本、足の本を読みふけっていました。
イラスト:高本 泰朗
【今の僕の原型がこの時期に作られたのかもしれません・・・。】
M社にいたのは一年半だけだったのですが、型紙やデザインだけでなく現場にも入り、汗まみれになりながら靴作りに没頭しました。
おかげで靴作りに必要なすべての機械の使い方をマスターすることが出来ました。
M社を退社するころには先輩のデザイナーの方たちよりも型紙の技術は高かったし、靴作りの知識・技術も一番上だったと今でも思います。
当時も不景気と言われていたので、会社の人たちと食事に行っても先輩たちは仕事や靴業界への愚痴ばかりだったのですが、僕が思いっきり前向きだったので、『 お前と喋ってたら頑張らなあかんなぁって思うわ・・・。 』って先輩によく言われたものでした。
今の僕の原型がこの時期に作られたのかもしれません・・・。
うっとおしいくらい熱かったんでしょう。(自分では気付きませんでしたが。)
【ふざけた子供から、目に輝きを持った青年に変わっていく瞬間だったと思います。】
先輩たちには「 お前、8万円でよくそこまで頑張るわ・・・。 」 ってよく言われましたね。
当時は友達と遊ぶより、靴の方が好きだったので全然平気です。
おかげでずいぶん友達が減ってしまいましたが(笑)
M社を退社するとき、今までほとんど喋ったことのなかった(話しかけてくれなかった)社長が最後の日の夜に僕だけをお寿司屋さんに連れて行ってくれ、 社長の昔からの靴作りに対していろいろ話をしてくれました。
なおかつ帰り際、車の窓から無造作に手渡しで金一封を頂きました。
「 やめていく人間に金を渡すんは君が初めてや。大阪に戻っても頑張りや。 」 って言ってくれて、社長の前で泣いたのを覚えています。
東京一年、神戸三年。 合計4年の修業期間。
そんなこんなで僕の若手修行編は終了しました。
ふざけた子供から、目に輝きを持った青年に変わっていく瞬間だったと思います。
<つづく>
生まれも育ちも大阪の生野区という下町で過ごしてきたデザイナーの高本氏。
靴の専門学校、シューズメーカー数社での企画・デザインの経験を経て、当時靴の下請けであった実家「タカモトゴム工業所」で靴作りに励む。
2001年、後に「リゲッタ」「リゲッタカヌー」などのブランドを手掛ける「シューズミニッシュ」として、靴メーカーを始める。